僕の料理修業記![]()
イタリアへ辿り着く以前
僕が料理人を志したのはもう30年以上前のことだけれど、
その当時、僕の中でイタリア料理に対する憧れ?とか、
特別な意識というものはなかったと思う。
ただ、中学2年の時に母を交通事故で亡くして、
自分で食事を作らなければならない時期があった。
学校から帰ると、今日は何を食べようか?
考えてなんとか作っていた経験が
後になってこの職業に違和感なく入れたのだと思う
高校卒業と同時に夜はステーキハウスで仕事をしながら
地元の調理師学校に入学した
卒業してすぐにアメリカへ渡り、
ニューヨークの日本料理店に勤めた。
とくに和食に興味があったわけじゃないけれど、
その後もそうであるように、僕は異国の空の下で
働いているのが性に合っていたのかもしれない。
とにかく、ニューヨークに行った。
でも、毎日深夜の地下鉄でアパートに帰るのがとても怖かった。
じっと見つめる黒い肌の無機質な眼光。。。
あぁこの緊張感はニューヨークの危ない地区に迷い込んだ
経験のある人じゃないとわからないよな〜 なんて・・・
で、怖いのでその仕事は辞めてしまった。その後、しばらく
カリフォルニアでアルバイトをしながらのんびり過ごしていた。
日本に帰ると、お世話になった調理師学校の校長先生が、
東京のホテルの仕事を紹介してくれた。
その当時、ステータスのあった高輪プリンスホテルの
フランス人シェフのいるメインダイニング
「ル トリアノン」に運良く就職する運びとなった。
ホテルのすぐ前にあった寮に住み、
最初はフランス語などまったく解らずがむしゃらに仕事をして、
職場と寮の往復で一日が終わる毎日だった。
今思えば楽しい青春時代?って感じかな・・・
とにかく、「ル トリアノン」では厳しい総料理長のもとに、
正確で丁寧な調理技術の基礎を徹底的に叩き込まれたから、
調理人としてはたいへん幸運だったと思っている。
イタリア料理を志すのに、フランス料理の知識は必要無い
とも言えるけれど、基礎技術の精練度という点で、
フランス料理の厨房にいたことがその後も身を
助けることになったと思っている。
でも、当時の高級フランス料理はクリームやバターの使用量が多く、
美味しいけれどもこってりとした濃厚な味わいで
僕には重すぎて毎日普通に食べられる料理ではなかった。
やはり、自分が一生この仕事を続けていくには、毎日食べても
食べ飽きない料理を求めるようになっていった。
でも、結論はでないまま時を過ごしていたと思う。
そんな時、グァムとサイパンの間にあるロタ島の
リゾートホテルの仕事の話があった。
南国の島なら魚介類も豊富で、自分が求めている料理に
近いのではないか? という思いと
海外のリゾート地という魅力に惹かれて行ったのだが・・・
25歳で海外のリゾートホテルのシェフとして
まかされることになってしまった!!
ここでは、アメリカや日本から空輸で送られて来る食材の調達や
現地の人たちを使うので仕事は大変だったが、
空いた時間は、
プールや海で泳いだり、ダイビングや
ジャングル探検などや、
仕事が終わると星空を見上げながらビールを飲んで、
南国特有のわりとのんびりした生活をエンジョイしていた。
その後、オーストラリアのホテルで働く予定で
日本に一時帰国した時に、
たまたまイタリア料理店で食事をしていて閃いた、
「これだ!!!」
僕が今まで求めていた毎日食べても飽きない料理だったのだ。
すぐにオーストラリア行きはやめ、
原宿のイタリア料理店「ヴィノ・エ・パスタ」
の
オープン当時のシェフとして転職した。
ここで僕は、「フランス料理じゃないヨーロッパの料理、
はじめてのイタリア料理」をすることになったのだが・・・
とは言っても、イタリア料理の基本なんてなにも身につけて
いなかったし教えてくれるシェフもいなかったから、
その当時の数少ないイタリア料理の本を読んだり、
イタリア料理店へ食事に行って勉強し、
フランス料理の感覚で自分なりのイタリア料理を
作っていたと思う。
「ヴィノ・エ・パスタ」でシェフをしている時に、
旅行で初めてイタリアへ行った。
その時に食べたイタリア料理の数々が、シンプルな調理法で
作られていたにもかかわらず非常においしいかった。
試行錯誤しながら作っていた僕の料理に漠然と違いがある
ことを感じ、カルチャーショックをうけた。
イタリアへ行って本物のイタリア料理を学びたい
という気持ちが日増しに強くなっていった。
代わりのシェフが見つかるまで過ごして、なぜか南国好きの僕は
ジャカルタ(インドネシア)のレストランで1年間働く事に、
ここでは、スタッフのほとんどがイスラム教徒だったので、
宗教上の違いで僕には理解できない部分がいろいろとあった。
豚肉が食べられないから、豚肉の味見をしないコック、忙しくても
お祈りの時間になるといなくなってしまうスタッフ、などなど
世界は広い、、、「国や人によっていろいろな考え方がある。」
と言うことを再認識させてくれた国でした。
赤道直下で年間平均気温がたしか28度の一年中真夏のなかを
現地の人によく道を聞かれるぐらいなじんで生活をしていた
そして1985年、インドネシアに別れをつげて、
ついに憧れの地”イタリア”へ渡った!!!